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反日の自滅/偽名で生きる偽りの人生 [日本の中の韓国]

大津の中2自殺事件が、大人社会の醜態を浮き彫りにしている。

喧嘩や戯れなら、程々という手加減が出来る、ということも強さの要件である。
  しかし、この一件は、加害者の残虐性が際立っている。
  背後に居る大人達の傲慢さも、前代未聞の酷さである。

日本社会の常識を踏みにじるほどの、少年と大人達の振る舞いに、
日本人は驚愕しているのである。

  子供は、教育によって人間としての常識を獲得してゆく。
    親や教師が、日々、小さなことを教え重ねてゆくのが、育てる、ということだ。
    悪いことをしても放置する、というのでは、歪んだ育ち方をするのは当然だ。

日本の社会では、悪いことをすれば、一生、その責めを負って生きることになる。
  傷ついた名前で生きて行かねばならない。
  名前を汚さないように、正しく生きる・・・・それが、信用につながる。
信用を築くには長い年月が必要だが、信用を失うのは一瞬である。
その恐ろしさを自覚しているからこそ、自分を制御する力が常に働いているのである。


ところが、今回のこの事件。
加害者少年たちが、いとも簡単に名前を変えて、転校して、なんて伝えられている。

日本、いや、世界中で、自分の名前を、次々に使い捨てにするのは彼等だけである。
人類の当たり前の水準を、勝手に逸脱して、水準以下のレベルで生きているのだ。

    自分が自分であるという自覚、アイデンティティの確立とは無縁である。
    自分という自覚がないから、自分以外の他者、という関係性も築けない。

自分自身との付き合い方が分からない。
  昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分を、一貫した自分自身として認識できない。
  自分自身の歴史に対して、自分の今日に責任を持つ、ということが認識できない。

自分以外の他者との付き合い方が分からない。
  他者を理解するとか、尊重するなんて、想像もできない。
  相手を傷つけても、自分の欲望を押し通すのが、人生の勝者だと勘違いしている。

  大津事件の加害者の親は、まさしく、この勘違いの見本、と言える。


名前を使い捨てにする人間は、自分自身を使い捨てにする生き方しか出来はしない。

  我が子の名前を使い捨てにして、我が子の人生を使い捨てにする親。

  自分の人生を、自分自信の生きた歴史を、何処までも大切に守り抜く。
  そういう、本当の意味で自分を大切にする生き方を教えることに失敗している。

まあ、親自身が、
      欲望を押し通すのが勝ちだと勘違いし、
      上辺だけのゴマすりに取り囲まれて有頂天になっている。

      自分自身と向き合うことを恐れ、我が子と向き合うことを恐れ、
      自分の人生を使い捨てにして、我が子の人生を使い捨てにする。

  その内に、我が子に向かって、お前のせいで・・・・、と罵声を浴びせることだろう。

    自分の欲望を押し通す、という道筋に邪魔をした、という怒りである。


名前を使い捨てにするのを止めて、たった一つの本名で堂々と生きてみろ!

  これが、大津の事件に対する、日本人の憤りの深い気持である。

自分の名前を守り抜けない人間に、人としての良心は存在しない、と言うことである。

反日の自滅/大津加害者少年の心の闇 [日本の中の韓国]

昨年10月、滋賀県大津市の市立中学校で2年生生徒が自殺した。
今のところ自殺と称されているが、真相は殺人、若しくは殺人教唆であろう。

恐喝・暴行・窃盗、そして、殺人・死体遺棄の疑い、など、犯罪項目のオンパレードである。
また、担任・校長・他教諭、市教委・教育長、警察・病院、市長・知事・議員、など、
地域、行政、そして加害者少年の家族親族から、人権団体まで、
異様なまでの加担勢力の広がりが、どこまで緻密に検証されるか、警察の捜査を待つところである。

日教組のボス、輿石が政権与党の幹事長であることも、
文科省や法務省、揚句は民主党政権そのものの醜態を示すことになるだろう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

主犯の加害者少年の心の中を考えてみよう。

論拠となる事実は、次の2点である。
  1.謝罪はおろか、悪いことをしたと認めない。
  2.被害者死亡後も、被害者像への執拗な攻撃を加える。  (下記参照)

他ブログの記事、「大津自殺、加害者少年は家庭状況の現れ」 で紹介した次の一文。
学校が実施したアンケートに「(教室に)貼ってあった男子生徒の写真の顔に、死亡後も、いじめをしたとされる生徒が穴を開けたり落書きをしたりしていた」など、執拗ないじめの様子に関する記述があった・・・・
  (2012.07.07 共同通信)


謝罪、ということを考えてみよう。
  悪いことをしたら謝るのが人の道である。
      自分がされたら厭なことは、(他人に対して)するな
  これが、日本人の道徳律の基本である。相手の身になって考えるのである。
  この、我々にとっては当たり前のことが、実は、とても高い文化の表れなのだ。

  ① 自分のことを横に置いておいても自分は崩れない、という自己存在感への信頼
  ② してはならない、と考えたら、しないで居られる、という自己制御力への信頼
  ③ 他者への配慮によって学ぶことが大きい、といういう向上心への信頼
  ④ 他者も自分と同じようにするだろう、という社会への信頼

こういう多様な信頼感の上に、謝るべきことは謝る、のが謝罪である。
自責の念から逃れるため、他者からの批判を避けるための謝罪もあるが、
そういう時は、心からの謝罪ではない、という印象を受けるものである。

ここで、これらの信頼感の存在しない場合を考えてみよう。
  相手の身になっていたら自分が無くなってしまう、という感情があると、
  その後の、自己制御力も向上心も社会性も、発達する余地はない。

希薄な自己存在感では、自尊心は育たず、虚勢を張ることになる。
他者を尊重するのは、自分を弱める、弱い自分を示すことになる、と考えてしまう。
相手の嫌がることでも、強引に押し通すのが、力のある証拠だと思い込んでしまうのだ。
相手を鏡にするなんて想像も出来ないだろうし、何も学ぶことは無い。
他者への配慮がなければ、安定した社会は実現せず、
 その結果、個人も永久に不安定な心理状況で、他者を出し抜くことしか思いつかない。
嘘、ペテン、から、パクリ、捏造、そして、詐欺から恐喝まがいの生き様となる。

今回の大津の事件は、
  相手の身になって考える文化における、身勝手文化が犯した行為、だと考えられる。
  我々にとっては驚愕すべき犯罪だが、身勝手文化からすれば犯罪ではないのかも・・・・。

  担任、校長、教育長、市長も警察も、加害者生徒の周囲の大人達は、そろって傲慢だ。
  謝りもしなければ、事実を直視しようともしない。
  自分の虚勢を守るのに必死だ。
  親さえ、子供を守るために権力を使いはしたが、何一つ犠牲にはしていない。

    名誉も財産も、すべて投げ打って、我が子の非を詫びる、という姿は無い。

  大人たちは、全員、保身の一言に尽きるのである。少年のためではない。
  自分の後姿を見せて、子供に道理を教える、という大人が一人も居ないのだ。
        こんな大人たちから、少年は何が学べるのか。
        彼は、身勝手文化の弱き体現者、に過ぎないのだ。

では、その身勝手文化の主たちは、どの様な結果を将来するのだろうか。


1.反日の自己矛盾

    日本のことを中傷するが、日本に住む。
    朝鮮のことを称賛するが、朝鮮を捨てている。

日本に住み、日本語を話し、日本名を名乗る。・・・・すべてが偽りの行為

祖国が称賛に値し、祖国が好きなら、
帰国して、祖国の言葉を話し、祖国の文字を使い、本来の名前で生きてゆく。
  それが、人間として筋の通った生き方である。

在日と言われる人々の中でも、
  日本が好きで、日本人になり、日本人として生きてゆきたい、
という人には、矛盾は無い。

しかし、声高に反日を叫びながら、日本に留まっているのは、自己欺瞞である。

子供は自我の成長過程で、当然、アイデンティティーの確立に躓く。
  日本人社会で日本人として生きながら、日本を嫌い、中傷しなければならない。
  それは、自分自身を嫌い、中傷することに他ならない。

  親の、反日中傷の言葉を繰り返し聞かされ、まるで、日本人になるな、という言葉。
  それは、日本人になるなら成長するな、という命令として受け止められる。

  一方で、親はそう言うが、自分自身の記憶には、優しい日本人もたくさん居る。

何を信じ、何を頼りに、どのように自分の人生を進ませていったら良いのか、分からなくなってしまう。


2.差別だ、の一言で、向上心を放棄

こんな話を読んだ。
  学校の先生が、家庭訪問で、「お宅では、どの様な教育をしているのか」と質問したところ、
  「うちは部落や、差別するんか」と凄まれ、返す言葉も出なかった、と。

「差別だ」と言ってやれ、そうしたら、相手は黙る。
  その様な、便利な撃退方法として、この一言が伝授されているのかも知れない。

しかし、そう言われた相手は、恐れて引き下がったのではない、と理解できるだろうか。
  差別と区別を区別する。・・・・これが出来る人と、出来ない人の違いである。

この人物は付き合っても大丈夫か、そういう気持ちで人は近づきの一歩を始める。
  信用できる人と、出来ない人を、分ける、つまり、区別しようとする。
  こういう場合は、当てにならないけど、こういう場合なら、大丈夫、とか。
  自分と話の合う人か、興味の分野が全く異なる人か、とか。

その人の在りのままの姿を知ろうとする、というのが知り合う第一歩だ。

だけど、その場で、「差別だ」なんて開き直られたら、知ろうという気持ちが消え失せる。
  開き直り、というのは、自分を高めたい、という気持ちの全否定である。

  自分を高めるには、在りのままの自分を知ることから始めねばならないし、
  自分を考える、ということに慣れていたら、少しでも話すことができる。

  けれども、開き直りは、自分を語る、ということを高飛車に拒否する態度であり、
  自分を語る、ということを拒否されたら、当然、会話は成り立たない。

      開き直られた相手は、黙って去る、だけである。

それを、相手を言い負かした、と受け止めているとしたら、それこそ、
  成長できる機会を放棄して、自らを現状に閉じ込めた愚行だと言わざるを得ない。

      開き直りによって、自らの向上心を踏みにじってしまった、のである。


3.自己矛盾と開き直りで、反日の子育ては行き詰る

    反日感情を抱きながら日本人に育つ、という矛盾、欺瞞
    自らを見つめて、高める、という向上心の放棄、

親が抱く反日感情が激しいものであればあるほど、子どもは、自己崩壊する。


  今回の、大津の加害者少年は、成育過程での欺瞞の上に、
    転校、名前の変更、という自己否定を押し付けられた。

      今まで通っていた中学校から逃げ出す、
      今まで使っていた名前を消し去る、   という存在の否定である。

  親は、子供を守る、と言いながら、その行為は、子供の尊厳を根こそぎ奪ったのである。

  そういう、言葉と行動の、完全な矛盾、欺瞞を再び押し付けられた訳である。


この少年は、気づいているかも知れない。
いや、まだ気づいていないとしても、
それは、認めたくないから、気づかないようにしている、だけかも。

  親は、子供を守ろうとしているのではなく、親自身の虚栄心を守ろうとしているだけ、だと。

  子供である自分は、親の虚栄心の飾りの一つに過ぎない、と。

だから、自分の気持ちを分かろうとはしないし、じっくり話に耳を傾けてくれることも無い、と。


彼が求めているのは、毅然とした態度で、自分を諭し、導いてくれる人。
言葉と行動が一致していて、裏表がなく、信用して話を聞ける人。

  転校先で暴力をふるった被害生徒の父親が、散乱した荷物を拾わせていた、という。
  彼は、内心、嬉しかったのではないか。筋の通った大人に出会って。
      だけど、教委がまたもや、筋を破って、お坊ちゃま擁護に出た。

彼の行為は、確かに許しがたいし、これからも、犯罪に走る恐れは十分にあり得る。
しかし、それは、親や教師など、周囲の大人が、あまりにも欺瞞に満ちた生き方をしている、という、
子供からの訴えであり、真っ直ぐに成長したいという存在を懸けた悲鳴でもある、とは考えられないか。

  反日感情を顕わにし、反日運動を続けている在日の家庭では、同じことが生じている。

自分の子供の、精神的な成長を阻害し、アイデンティティの確立を根底から腐らせている。
それでも、欺瞞に満ちた反日に疑問を抱くことは出来ないのか。
    反日の親は、激している感情を静めて、少し考えてみる必要がある。
    犠牲者は、我が子だと。

日本に住むなら、日本を好きになり、日本人として慎ましやかに生きること。
それが嫌なら、家族そろって祖国に帰るべし。

    それしか、子供の心を救う道は無い。

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